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第43話 奈々香が消えた部屋

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-30 07:13:29

 壁に浮かんだ〈じゃあ、見せてあげる〉という黒い文字を読み終えた瞬間、隠し部屋の照明が落ちた。

 テレビの砂嵐も、管理端末の表示も、朔が床へ置いていた機材の小さなランプも同時に消え、三畳ほどの空間は輪郭さえ失う。

 澪は隣にいた美月の袖を掴もうとしたが、指先が空を切り、その直後に誰かの肩が壁へぶつかる鈍い音を聞いた。

 暗闇は数秒しか続かなかったはずなのに、そのあいだだけ部屋がひどく広くなったように感じられた。

「動かないで」

 朔の声が闇の中から届き、すぐに非常用の小型灯が点いた。

 青白い光が壁いっぱいの澄花の文字を照らし、蓮司、悠斗、美月、朔、澪の顔を順番に浮かび上がらせる。

 澪は無意識に人数を数え、二度目で息を止めた。

 五人しかいなかった。

「奈々香?」

 美月が最初に名前を呼んだ。

 隠し部屋の入口、床下の蓋、ベッドの陰、壁際の机。

 どこにも奈々香の明るい色の服は見えない。

 ほんの数秒前まで、彼女は澪の右後ろで壁に現れた新しい文字を見ていたはずだった。

「奈々香!」

 今度は悠斗が声を張り、二〇三号室側へ飛び出した。

 澪たちも続くが、和室にも台所にも浴室にも奈々香はいない。

 玄関は内側から施錠され、椅子も倒れていない。

 窓の開閉確認用テープも破れておらず、押し入れの奥に設置した監視カメラは赤い表示灯を点けたままだった。

 蓮司が玄関の監視記録を開き、照明が消えた前後を巻き戻す。

 奈々香が廊下へ出る姿はない。

 窓側の映像にも人影はなく、床下の隠し通路へ向かう蓋も閉じたまま映っている。

 七刻女学校で透の遺体が消えたときと同じように、存在していた人間だけが記録から抜け落ちたようだった。

「外には出てない」

 朔の声が低くなる。

「じゃあ、どこに行ったの」

 美月は和室を見回した。

 いつもの冷静さを保とうとしているが、救急鞄の持ち手を握る指は白くなっている。

「壁の中?」

「入口は見てた」

 悠斗が押し入れへ駆け寄り、外された奥板の先へ懐中電灯を向ける。

 配管と断熱材、その奥の二重壁。

 隠し部屋へ続く開口部には誰もいない。

 床下の蓋も、隠し部屋側から出なければ開けにくい構造のままだった。

 澪が奈々香の名をもう一度呼ぼうとしたとき、畳の上で電子音が鳴った。

 奈々香のスマートフォンが落ちていた。

 画面には細い亀裂が走り、昨夜から使っていた透明なケースにも水滴の跡が残っている。

 照明が落ちる前、奈々香は確かにそれを手にしていた。

 美月が拾い上げるより先に、端末が震え、着信画面へ切り替わった。

 発信者名を見た瞬間、五人は誰も動けなくなった。

 白石奈々香。

「本人の携帯はここにある」

 悠斗が掠れた声で言う。

 それでも着信は続く。

 美月が端末を取った。

「奈々香?」

 数秒、返事はなかった。

 ざあ、と水の流れるような雑音が聞こえ、その奥で誰かが泣きながら呼吸している。

 美月はスピーカーへ切り替えず、耳へ当てたまま声を低くした。

「奈々香、聞こえる? 私、美月」

『……助けて』

 奈々香の声だった。

 美月の顔色が変わる。

「どこにいるの?」

『二〇三号室』

 澪は思わず周囲を見た。

 二〇三号室。

 自分たちもそこにいる。

「私たちも二〇三にいる!」

 美月の声が強くなる。

『違う』

 奈々香が泣いた。

『誰もいない。澪も、朔も、美月もいない。部屋が……変なの』

「何が見える?」

『同じ部屋。でも違う』

 奈々香の呼吸が乱れ、何かへ背をつけるような衣擦れが聞こえる。

『壁紙が新しい。今のより白い。畳もまだ黄色くない。テレビが古いやつで……箱みたいな』

「ブラウン管?」

『たぶん』

 蓮司が澪を見る。

 八年前なら、現在より新しかった二〇三号室と、古いブラウン管テレビが同時に存在していても不自然ではない。

「カレンダーはある?」

 蓮司が美月へ小声で訊き、美月がそのまま奈々香へ尋ねる。

『ある』

「日付は?」

 奈々香が泣きながら数字を読む。

 八年前。

 澄花が七刻女学校から姿を消し、常世荘へ来た年だった。

 澪の胃が冷たく縮む。

「奈々香、落ち着いて。今いる場所から勝手に動かないで」

『無理』

「どうして?」

『人形がいる』

 電話の向こうで、木が小さく軋んだ。

『七体』

 奈々香の声が震える。

『全部同じ顔。赤い着物で、部屋の真ん中に並んでる』

 澪は現実の和室にいる返し雛を見た。

 布団の上には一体しかない。

 その白い顔は動かず、閉じた目のままこちらへ向いている。

『その真ん中に、女の子がいる』

「誰?」

『澄花……だと思う』

 奈々香のすすり泣きが止まった。

『制服。額に包帯してる。私のこと見てる』

 澪は美月の手からスマートフォンを奪いかけ、思いとどまる。

 美月はそのまま通話を保ち、何を言っているか聞くよう促した。

 雑音の向こうで、奈々香ではない少女の声がした。

『押し入れを開けて』

 澪の背中に冷たいものが走る。

 電話越しの声なのに、現実の二〇三号室でも同じ言葉を聞いた気がした。

 振り向くと、押し入れの襖は半分開いたままだ。

「私が開ける」

 澪は和室へ移動した。

「一人で触るな」

 朔がすぐ隣へ立ち、蓮司も床下の構造図を持って続く。

 押し入れの中には、昨夜から調べている細い壁内空間と、外された奥板しかない。

 澪は下段へ膝をつき、録画映像に現れた最初の行方不明者が指していた位置を思い出した。

「もっと下」

 床板を指で叩く。

 こん。

 少し横。

 こん。

 右奥だけ、音が違った。

 こぉん、と深い空洞音が返る。

「ここも二重になってる」

 蓮司が計測器を当てる。

 隠し部屋へ続く床下収納とは別方向に、細長い空間が伸びている。

「図面にはない」

「またかよ」

 悠斗が工具を持ってくる。

 澪は電話へ声をかけた。

「奈々香、押し入れの中に何か見える?」

『こっちは閉まってる』

「開けられる?」

 数秒後、向こうで襖を動かす音がした。

『開いた』

「中は?」

『暗い。でも、下から風が来る』

 現実の押し入れでも、澪の頬へわずかな風が触れた。

 朔と蓮司が床板を外す。

 最初の一枚の下には古い断熱材があり、そのさらに下へ新しい木枠が組まれていた。

 螺子を外すと、横方向へ伸びる狭い穴が現れる。

 高さは六十センチほど。

 大人なら四つ這いでしか進めない。

 七刻女学校の管理通路とも、先ほど見つけた隠し部屋の逃走経路とも違う。

「俺が先に行く」

 朔がカメラを胸元へ固定し、蓮司が後ろから続いた。

 美月は通話を切らず、奈々香へ声を掛け続ける。

 悠斗は入口を広げ、澪は懐中電灯を穴へ向けた。

 数メートル先で朔の声がした。

「人がいる」

 美月が立ち上がる。

「奈々香?」

「倒れてる」

 澪たちはすぐ後を追った。

 穴の先は建物の中央にある床下空間へつながっており、そこだけ人が座れる程度に高さがある。

 朔が懐中電灯を向けた先で、奈々香が横向きに倒れていた。

「奈々香!」

 美月が身体を滑り込ませる。

 奈々香の瞼が動いた。

 呼吸はある。

 首や頭部に目立った外傷もない。

 美月が脈を取り、朔と蓮司が周囲を確認する。

 発見まで、照明が落ちてから三分ほどしか経っていなかった。

 奈々香は数度咳き込み、目を開けた。

「……美月?」

「動かないで。気分悪くない?」

 奈々香はぼんやり周囲を見たあと、突然身体を起こそうとした。

「澄花は?」

「いない」

「人形!」

「ここにはない」

「嘘……」

 奈々香の顔から血の気が引いた。

「私、二時間以上あそこにいた」

「三分くらいだよ」

 澪が答えると、奈々香は首を振った。

「違う。時計見た。最初に一時過ぎで、そのあと三時……ずっと呼んでた。電話だって何回もかけた」

 奈々香のスマートフォンは二〇三号室の畳に残っている。

 それなのに通話は確かに成立した。

 美月は時間感覚が混乱している可能性を説明しながら、意識状態、瞳孔、手足の感覚を確認した。

 酸欠や頭部外傷を疑わせる所見はなく、奈々香自身も倒れた瞬間を覚えていなかった。

「照明が消えて、気づいたら部屋にいた」

「この床下じゃなく?」

「二〇三号室」

「八年前の?」

 奈々香が頷く。

「臭いも違った。テレビから番組やってた。外で車の音もしてた。夢じゃない」

 誰も夢だとは言わなかった。

 蓮司は床下を調べている途中で、奈々香の右手近くに白い紙片を見つけた。

 領収書だった。

 古い感熱紙ではなく、管理人が手書きで発行した簡易領収書で、常世荘、二〇三号室、三泊分という文字が残っている。

 日付は八年前。

 澄花が泊まっていた日付と一致する。

「これ、どこにあった?」

 奈々香へ見せると、彼女は知らないと首を振った。

「持ってない」

 美月が衣服を確認する。

 奈々香の上着のポケットには、細かな埃と一緒に同じ紙質の破片が入っていた。

 領収書はそこから落ちたと考えるのが自然だった。

「誰かが入れた」

 悠斗の声が低くなる。

「三分の間に?」

「ここへ引き込んだ奴ならできる」

「でも、どうやって照明が消えた瞬間に奈々香だけ移動させる」

 朔は穴の周囲へ光を当てた。

 引きずった跡はない。

 奈々香の衣服にも膝や肘を擦った汚れがほとんどなく、自力で四つ這いして入ったようにも見えなかった。

 澪は領収書を裏返した。

 鉛筆で文字が書かれていた。

 右へ少し傾く筆跡。

 払いの長い字。

 見間違えるはずがない。

「澄花の字」

 蓮司がすぐ近づく。

 澪は声に出して読んだ。

奈々香へ。

もしこれを読んでるなら、私はもうここにはいない。

 奈々香の唇が震えた。

「私に?」

「八年前に書いたのか……?」

 蓮司が日付を見直す。

 奈々香は領収書へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 まるで触れれば八年前の澄花の体温まで伝わってくるのを恐れているようだった。

 裏面にはまだ余白がある。

 澪が光を斜めから当てると、薄い筆圧の跡が浮かんだ。

 何かを書いたあと、下半分だけ強く擦って消したように見える。

「続きがあった」

 朔が言う。

 美月が紫外線ライトを使うが、鉛筆はほとんど残っていない。

 蓮司は紙を壊さないよう、その場で写真だけ撮った。

 そのとき、奈々香が澪の腕を掴んだ。

「澪」

「どうしたの?」

「澄花、最後に何か言ってた」

 奈々香の目が怯えたまま固定されている。

「押し入れを開けてって言ったあと?」

「違う。私をここへ戻す前」

 奈々香は唇を震わせながら、八年前の部屋で聞いたという言葉を思い出そうとした。

「人形を七つ並べて、それから私に……『一人足りない』って」

 澪の背中が冷えた。

「何が?」

「分からない。でも、澄花が人形を数えてた。七体あったのに、八まで数えた」

 床下の奥で、何かが小さく転がった。

 朔が光を向ける。

 暗闇の中から、白い人形の手だけがこちらへ滑ってきた。

 腕の先は、肘のところで綺麗に切れていた。

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